紅梅御前宮 KoubaigozenguShrine
紅梅御前宮
下郷町大字戸赤地内に「紅梅御前宮(こうばいごぜんぐう)」と呼ばれる神社があります。
紅梅御前(こうばいごぜん)とは、平安時代末期に後白河天皇の皇子である高倉以仁王(たかくらもちひとおう)の中宮(妻)で、宇治川の戦いで平家方に敗れ、越後の小国城を頼って落ち延びる以仁王の跡を追って戸赤までやってきます。しかし、以仁王は一足違いで旅立った後で、紅梅御前は恋しい以仁王に会えることなく、長旅の疲れから17歳の若さで、この地で亡くなったと伝えられています。後にそれを知った以仁王が紅梅御前を哀れみ、ねんごろに祀った神社が紅梅御前宮で、現在は子授・安産の神様として親しまれ、地元の人に大事にされています。
また、この祠の前を流れる戸石川は、紅梅御前をしのんで姫川とも呼ばれ、下流には姫川という地名が残っています。
高倉以仁王は、治承4年(1180年)に源頼政と共に平家追討のために挙兵しますが、6月24日の宇治川の戦いで敗れ、逃げる途中に光明山鳥居の前で流れ矢に当たり、討ち取られたとされています。
しかし、平家方には以仁王の顔を知る者がなく、平清盛は以仁王の子を生んだ女房に討ち取った首を見せて確認しようとしますが、身代わり説もあり、巷では、遺体が確認できなかったため行方不明や東国生存説が伝えられます。
以仁王は群馬県沼田から尾瀬を通って南会津に入り、当時の山本村(現在の大内宿)や戸赤村を通って越後に向かっています。
紅梅御前には侍女の桜木姫に堀八十次と岩瀬小藤太という供の者が付き添って以仁王の道筋を辿ってきましたが、白河の関より岩瀬郡の風坂峠や蝉峠の難所をかけてくる途中、長旅の苦労で堀八十次を亡くし、8月24日、ようやくのことで山本村(後に大内村)に辿り着いたときには、無情なことに以仁王は一足違いで先に旅立った後でした。
長旅の疲れと、以仁王には遂に逢えない絶望の気持ちとで、眼の前から急に光明の消えたような思いであった。さらにもともと病弱であった侍女の桜木姫が8月26日に逝去してしまい、力を落とし悲観にくれた紅梅御前でした。
紅梅御前は深い悲しみのなかにあって、小藤太を伴い、以仁王の通った道筋を辿って戸石村の五郎兵衛宅まで来ますが、このとき紅梅御前は臨月の身で心身の疲労は深く、床に臥してしまいます。
そして、以仁王に会えないままあの世に先立つことの悲しみを切々と小藤太に訴えながら、28日の明け方、遂に逝去してしまうのでした。
小藤太は泣く泣く以仁王の落ちて行った越後の小国の郷に跡を追い、以仁王に重なる悲報を伝えたところ、以仁王は深い悲しみをもって乙部右衛門左を御名代に、紅梅御前と桜木姫の霊を弔うよう仰せつけられました。
乙部は9月15日に伊北郷楢戸(現在の只見町楢戸)の竜王院で姫君たちの供養をし、竜王院の山伏も同行して9月21日に戸石村に入り、紅梅御前のために祠を造りお祀りしました。それが紅梅御前宮です。
紅梅御前宮の前に流れる戸石川には、かつて幾度橋を架けても一夜の雨で流されてしまうそう。
人目を避けての憂き旅に、子も生めずあの世に旅立っていった紅梅御前の誰にも逢いたくないという心情を汲んで、自然は橋を流してしまうものだと、戸赤の村人らは言い伝えてきたそうです。
現在も紅梅御前を偲び、毎年、旧暦9月18日に神社前で紅梅御前のお祭りが開催されています。
また、戸赤地区では紅梅御前を尊び、昔から梅の木を植えてはならないとの言い伝えがあります。
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更新日:2024年12月03日